赦される為に赦す

今日は昼間に妹一家と我が家で昼食会である。残念ながら母は
仕事で欠席だ。

3人姉妹の姪の真中が今年は高校受験。しかもその試験が明日。
神頼みならぬ仏様頼みで、墓参りにも行って来たそうだ。

まぁ、じたばたしても仕方ない。全力で回答していらっしゃいな。
そして、いい結果が出ますように。

アーミッシュの赦し なぜ彼はすぐに犯人とその家族を赦したのか』
(ドナルド・B・クレイビル/デヴィッド・L・ウィーバー・ザーカー/スティーブン・
L・ノルト 亜紀書房)読了。

事件が起こったのは2006年10月2日。テクノロジーを極力排し、伝統的な
生活を営むアーミッシュのコミュティの学校で、部外者による銃乱射事件
が起った。

牧歌的ともいえるアーミッシュのコミュティで、こんな凄惨な事件が起きる
とは誰も思っていなかった。自身の子供が生後間もなく亡くなったことで
「神を恨んでいる」という男の犯行だった。

男が立て篭もった学校で、少女たちが犠牲になった。事件そのものも
センセーショナルであったが、それ以上に人々を驚愕させたのは
アーミッシュの人々が犯人とその家族に対して示した「赦し」だった。

「私たちの赦しに大きな影響を与えているのは、主の祈りです。
赦さなければ、私たちも赦されません」。アーミッシュの農夫は
そう語る。

「我らに罪を犯すものを我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」

アーミッシュの信仰でどんな時にでも唱えられる「主の祈り」が
彼らの宗教生活の根本にある。それが、彼らが憎むべき犯人を
赦し、その家族に示した思いやりの発露でもあった。

自分に対して、自分の親しき者に対して、罪を犯した者を赦す。
「罪を憎んで人を憎まず」とは言うけれど、難しい問題だと思う。

勿論、アーミッシュの人々にも喪失感や哀しみ、葛藤はある。
しかし、彼らにとって人を「赦す」ことは当たり前のことなのだ。

人を憎み続けるにはエネルギーがいる。そして、人を赦すこと
にもまたエネルギーがいるのではないか。

誰もがアーミッシュの人たちのように慣れる訳ではない。だが、
罪を犯した人に対し、自分に仇をなした人に対し、どのように
接すればいいのか。少しはヒントが掴めるかもしれない。

そもそも、犯罪なんて起らないに越したことがないんだけどさ。