国家への裏切りはあったのか

今週末から来週始めにかけてまたもや大型台風が来襲する。
今回は前回の台風よりも強力だとか。

前回もお約束のように台風が来ているのに海に行って
行方不明になった人たちがいた。危険なところへ近づいちゃ
ダメだよ〜。

『外交官E.H.ノーマン ─その栄光と屈辱の日々1909-1957─』
(中野利子 新潮文庫)読了。

1957年4月4日、エジプト・カイロでひとりのカナダ人が投身
自殺を遂げた。

彼の名前はエドガートン・ハーバート・ノーマン。自殺当時は
駐エジプト大使兼レバノン公使。宣教して日本の長野に滞在して
いた両親の元に生まれ、外交官として、また歴史家として頭角を
現した人物だった。

スエズ危機のさなか、カナダ代表としてナセルとの交渉に臨み、
その信頼を勝ち得た直後の死だった。

彼を襲ったのはアメリカ国内で吹き荒れた「赤狩り」の嵐だった。
本書は「悲劇の外交官」ノーマンの生涯と、アメリカが彼に貼り
つけた「スパイ容疑」への疑問を解き明かす1冊である。

集団狂気としか言いようのない「赤狩り」は、結局はマッカーシー
の売名行為以外の何物でもないのだが、「ハリウッド・テン」を
持ち出すまでもなく、犠牲者は多数に上った。

有能な外交官であったノーマンは、若かりし頃、確かにコミュニズム
に傾倒していた。だが、それは一種の熱病のようなものではなかった
のか。世界がコミュニズムに夢を見た時代は確かにあったのだから。

1930年代。コミュニズムに傾倒することは完全なる悪ではなかった。
審問を受けた女優だったかが「あの頃、それは正しいことだったの
よ。なんでそれが罪になるの?」と発言していた。

ノーマンもまた、学生時代にコミュニズムを進歩するサークルに
接近していた。それが問題にされた。

カナダでも、アメリカでも審問を受けた。カナダ国内では疑惑は
晴れたが、アメリカ国内ではなおもノーマンをソ連のスパイとして、
関係者の証言が集められていた。

イギリスを震撼させたケンブリッジ・ファイブと同じ時期に、
同じ大学に在学していたことも、ノーマンにとっては不運だった
のかもしれない。

そして、第二次世界大戦後、赴任した日本で占領軍最高司令官
マッカーサーの厚い信頼を勝ち得たことが、ウィロビーの嫉妬
心に火をつけたこともあったのだろう。

だが、本当にノーマンがソ連のスパイであったのならば、ケンブ
リッジ・ファイブのように過去を完全に切り捨てたり、ソ連
亡命するという手段があったのではないか。

スエズ危機の交渉で心身ともに疲労していたところへ、再審問の
可能性があるとの知らせが、彼に自死を選ばせたのか。

歴史かとしてのノーマンの業績、外交官としての活躍、人間性
丁寧に描いた良書である。

FBIは未だにノーマンをソ連のスパイだったとしている。だが、
ノーマンの死から33年目。カナダ政府は彼の名誉回復を行い、
彼の功績の見直しをした。

若気の至りを追及され、心折れた外交官にとってせめても慰め
は死後の名誉回復なのだろうか。

尚、第二次大戦後、日本に赴任していた時、ノーマンは三笠宮
殿下の家庭教師を務めてもいる。

彼が命を全うしていたら、外交官引退後、素晴らしい歴史家と
しての第二の人生があったのかもしれない。