逆転の貴公子、首都高に散る

「お昼、何か作る?」。スポーツ・ジムへ行っていた旦那からの
電話だ。うーん、食べたいものもないしな。どうしよう。

「何か買って帰ろうか?」。うん、そうしてくれるかな。で…旦那が
帰って来たのがフライド・チキン。

がーん。夕飯はから揚げにしようと思って、既に下味をつけた
鳥肉が冷蔵庫に鎮座している。昼夜、鳥肉でも文句を言わない
旦那でよかった。あ…もしかして、奴は肉ならなんでもよかった
のか。汗。

『狂気の右ストレート 大場政夫の孤独と栄光』(織田淳太郎
 中公文庫)読了。

彼の名前を初めて目にしたのは沢木耕太郎『王の闇』だった。
23歳で世を去った、ボクシング世界フライ級王者。

記憶に刻まれた名前は先日、古書店の棚を眺めていた時に
不意に目に飛び込んで来た。「大場政夫」。一瞬の迷いもなく
購入したのが本書である。

腕のいい職人だったが博打好きの父の影響で、大場政夫は
貧困のなかで成長する。雨漏りがする長屋暮らし。その長屋の
家賃も滞納が続く。

しかし、父を恨むことはなかった。反対に父の影響で政夫は
ボクシングに興味を持ち、中学卒業後、菓子卸問屋に就職
すると共に、父に連れられてボクシング・ジムの門を叩く。

帝拳ジム。日本でも歴史を誇るボクシング・ジムだ。しかし、
まだ幼さの残る練習生であった大場に目を留めるものは
誰もいなかった。

その大場が世界に登り詰めるきっかけは、ジムの危機だった。
2代目会長の死去、所属チャンピオンの不在は大場にとって
はチャンスだった。

入門前から枕をサンドバック代わりにし、ロードワークを重ねて
来た少年に、プロ・ボクサーへの扉が開かれた。

試合の描写はまるでその場に居合わせたかのような臨場感
がある。文字を追いながら、会場の歓声や怒号に包まれて
いるようだ。

貧しい暮らしの中から、拳ひとつでのし上がる。よくある話では
あるのだろう。大場も少年時代に、苦労を重ねる母に「そのうち
僕がお庭のついた家を建ててあげるよ」と言っている。

この言葉を読んで、スペインの闘牛士エル・コドベスが母代り
だった姉に言った言葉を思い出した。「今夜は家を買ってあげる
よ。さもなくば喪服をね」。

いくつかの負けを喫したものの、1970年10月、世界初挑戦で
タイのベルクレックを破り、貧しかった少年は世界王者となる。

そうして迎えた5度目の防衛戦。相手は「タイの英雄」チャチャイ・
チオノイ。壮絶な試合だった。1回にチャチャイのパンチを受けて
ダウンを喫した際に大場は右足首を負傷する。

その右足を引きずりながらの闘いは、絶頂にあった大場にも
苦しいものだった。だが、12回KOの逆転勝利で防衛に成功
する。

苦しい勝利から23日後の首都高速5号池袋線下り、通称・大曲カーブ。
当時、日本に2台しかないと言われた高級外車コルベットが、100キロを
超えるスピートで中央分離帯を飛び越え、上り線で渋滞で停車中だった
大型トラックに突っ込んだ。

コルベットの車体は大型トラックの下にはまり込み、運転者はほぼ即死。
白い車体から救い出されたのは現役の世界チャンピオン・大場政夫
だった。

「逆転の貴公子」は、永遠のチャンピオンのままに世を去った。
彼の墓に刻まれた戒名は、拳王院法政信士。

ボクシング関係者に見せる傲岸不遜な顔、友達に見せる無邪気な
顔、そして家族に見せる優しい顔。若くして散った大場政夫のすべて
を網羅している本書は、ボクシングを知らなくても興味深く読める
のではないか。

尚、本書冒頭に掲げられた、大場の最後の対戦相手チャチャイ・
チオノイの言葉も素晴らしい。