出来ること

昨夕のテレビ・ニュースの小さなコーナーで、被災地の受験生に参考書を
送ろうという活動をしている大学生が取り上げられていた。

あぁ、きっとこういうものを必要としている人もいるんだね。なんて観ていた
のだが、彼らの活動へ寄せられた批判を聞いて考えた。

曰く、被災地へも行かずインターネットに頼ったボランティアは自己満足
ではないか。

被災地にさえ行けばいいってものじゃないだろうと思うのだ。見て御覧、
震災発生後のゴールデンウィークにはとてつもない人数がボランティア
として各被災地に入ったが、今はどれだけの人数が残っている?

それに多かれ少なかれ、ボランティアってのは自己満足なんじゃないか。
自分が人の役に立った。そんな思いがないとは言わせない。

何も被災地へ行って、手助けするだけがボランティアではない。その人が、
出来ることを出来る範囲でする。それでいいんじゃないか。

この批判をした人って、どういう人なのだろう。そっちの方が気になった。

引き続き『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』(堀川恵子 日本評論社
を読む。

永山則夫が書いた『捨て子ごっこ』と『無知の涙』は若い頃に読んだ。確かに
悲惨な生い立ちではある。しかし、自分の犯行を親に、兄弟に、世間に責任
があるとした彼の考えには到底賛同出来ぬ。

高度経済成長期の日本、貧富の格差は広がりを見せていた。永山ほどでは
ないにしろ、恵まれぬ生育環境で子供時代を送った人々も多かったろう。
だが、その人たち全てが永山のような事件を起こした訳じゃないんだ。