人を裁くということ

衝撃だった。「砂漠の狂犬」リビアカダフィ大佐殺・害のニュースだ。
まさか、あの独自のかぶりものの下がハゲだったとは…。

冗談はさておき。圧政に苦しんで来たリビアの人々はともかく、
先進国首脳たちがひとりの人間の死・を歓迎する世界って、なんだか
怖くないか。

背筋が薄ら寒くなったのは、このところの気温の低下ばかりではない
気がする。

『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』(堀川恵子 日本評論社
読了。

永山則夫の生い立ちや事件については、永山本人の著作や事件を
分析した作品が他に多くあるので目新しいものではない。本書の
著者は女性であるせいか、感傷的な表現が引っかかるので事件
自体を追うのであれば他の作品の方がいいかも知れぬ。

永山の遺品のなかにあった書簡や、文盲だったと言われる彼の母が
カタカナで贖罪の気持ちを綴ったノートを目にする機会があったのだから、
そちらをメインに持って来てもよかったのではないか。

本文中に永山の母のノートからの抜粋が掲載されているのだが、読み易さに
重点を置き、著者が漢字・ひらがなの文章に書き直しているのも惜しい。彼女が
綴ったままのカタカナで載せた方が「俺を捨てた」と我が子から責められた
親の気持ちが伝わったのではないか。

さて、裁判記録である。一審で死刑、控訴審で無期、最高裁で無期判決破棄、
死刑となった永山裁判であるが、彼と獄中結婚をした女性の存在がなかった
ならば、控訴審無期懲役の判決は出なかったのではないか。彼女がいたから、
思想闘争とか訳の分からぬことを言っていた永山も変わったのではないか。

控訴審判決当時、メディアでも話題になった船田判決の次の一文は深い。

「どこの裁判所が審理しても死刑が避けられないと判断した場合にのみ
死刑が適用されるべきで、裁判官全員一致の意見によるべきとする精神が、
現行法の運用にあたっても考慮に価する」

死刑制度がある限り、凶悪犯罪に対しては死刑判決が下ることは避けられない。
しかし、その判決を下す裁判官も人である、人が人を裁く難しさは、怖ろしさは
永山の最高裁判決の際に調査官として名を連ねた裁判官の言葉が重い。

日本では裁判員制度が始まった。いつ、誰が裁判員になるか分からない。
その時、私たちは犯罪者とは言えどもひとりの人間の命を奪う決定を下せ
るのだろうか。

「生きたいと思わせておいてから、殺・すのか…」

無期判決棄却となった時の永山則夫の言葉である。死・をもって罪を償うのか、
生きて償うのか。遺族・被害者への償いとは何なのか。難しいね。