大正天皇の知られざる一面

『女官 明治宮中出仕の記』(山川三千子 講談社学術文庫)読了。

堂上公家・久世家の姫様は、明治天皇の后・美子皇后付の女官として
18歳で宮中に上がった。

「宮中で見聞きしたことは他言ならぬ」。

その禁を破って、著者が自身の体験を綴ったのは退官から約40年後
昭和35年だから、明治天皇も美子皇后もお許し下さるだろう。

江戸時代の大奥ほどではないにしろ、奥向きの仕事を担う女性ばかり
の生活はきつかっただろうなと感じた。オブラートに包んだ書き方を
しているが、妬み・嫉みが渦巻いていたのだろう。勿論、著者を気に
かけてくれた方もいたが。

他にも直に接した明治天皇と美子皇后のお人柄がしのばれるエピソード、
両陛下の日常のご生活の様子、宮中の年中行事についてなどが、宮中
言葉を交えながら描かれている。

特に印象に残ったのは大正天皇に関する記述だ。元々病弱であったのに、
元勲たちから明治天皇と同等の資質を求められ、心のバランスを崩して
しまった不運な天皇。得意であった和歌や漢詩の才能や、明治天皇とは
違うのだと言うことを周囲が認めていれば、大正時代はもう少し長った
のではないかとの印象を持っていた。

だが、本書では歴史書では知りえない大正天皇の一面が記されている。
皇太子時代の大正天皇は宮中へ上がった際に著者に目をつけていた。
そのご執心は明治天皇崩御後、新帝として即位してからも変わらない。

新たな両陛下にお仕えする話を断り、皇太后になられた美子皇后付の
まま青山御所へ移っても、何かと理由を設け青山御所へ赴き、必ず
著者を名指ししてお召しになっている。

大正天皇のご執心に薄々気がついていた皇太后は、名指しでのお召しが
あれば病欠という手を使い、御前に出ないよう気を浸かって下さる。
実母ではないが、母として息子である大正天皇のこのお振舞いを、
苦々しくお思いだったのかもしれない。

著者は皇太后崩御後に退官し、数年後に結婚するのだが、大正天皇
この結構ん披露宴の日時までご存じだった。不敬を承知で言う。ここ
まで来るとストーカーだ。

ただ、美子皇后を実の母であると信じて疑わなかった大正天皇が、
実母は側室であることを知った時の衝撃は大きかったのだろうな
とは感じる。

巻末には宮中の言葉の一覧、今は失われてしまった明治宮殿の見取図
が掲載されている。明治の終わりから大正の始めにかけての宮中を
知るのに貴重な資料でもある。