融和を目指した政治家の生涯

アメリカのセッションズ司法長官がFBI元副長官だったアンドリュー・
ケイブ氏の解雇を発表した。

あと2日で年金受給資格を得られるというタイミングだった。

表向きは不祥事を理由とした解雇のよようだが、どうせ大統領のお気に
召さなかったってのが本当の理由だろうしな。

我が国の安倍政権も酷いが、アメリカのトランプ政権もたいがいだな。

ヴィリー・ブラントの生涯』(グレゴリー・ショレゲン 三元社)
読了。

ナチス政権が誕生した1933年、ヘルベルト・エルンスト・カール・
フラームという名の青年は夜陰に乗じて密かにドイツを脱出し、船で
北欧を目指した。国外からナチスに対する抵抗運動を行う為に。

北欧を転々としながら祖国を思う青年はナチスにより国籍を剥奪され
ながらもジャーナリストとして活躍した。

その時に使用していたペンネームが、第二次世界大戦後に帰国し、国籍を
復活させた時に彼の正式な名前になった。

ヴィリー・ブラント。西ドイツの第4代首相である。本書はブラントの
評伝なのだが、東方政策をはじめとした彼の政策全般への言及は少なく、
生い立ちから晩年までの軌跡が大半を占めている。

ブラントと言えばポーランドを訪問した際のワルシャワ・ゲットーで花を
捧げた後の「ワルシャワでの跪き」の写真が有名だし、本書のカバーにも
使用されている。

私もこの写真からは感銘を受けた。だが、ドイツ国内では批判もあったの
は知らなかった。

そして、婚外子として誕生したことや、第二次世界大戦中に国外にいた
こともブラントへの攻撃材料になっていたとは。

個人秘書が東ドイツのスパイであったキヨーム事件が失脚の引き金と
なったのだが、東西冷戦の時代に融和政策を取ったブラントの政治家と
しての判断は正しいと思う。

だからドイツは戦後、周辺諸国との融和を成し遂げたのだろうな。それは
ブラントだけはなく、ナチスの行いを顧みたドイツ国内で脈々と受け継が
れたことなのだろう。

今でも歴史認識で周辺国と軋轢を起こしている日本との違いだな。

それにしてもブラント。ジャーナリストとして活動していたからなのか。
著作も多く、残されたメモも膨大にあるらしい。生涯にどれだけのもの
を書き残したのか。整理が大変らしい。