公表されなかった昭和天皇の詫び状

3連休中に台風が日本列島縦断。人的被害は少なかったものの、
各地で浸水や川の氾濫、強風による倒木などの被害が出ている。

なのに、安部様は国連総会出席の為に、政府専用機でニューヨーク
へ。確か安倍様は北九州豪雨の時も外遊してなかったっけ?

まあ、国交省のお役人さんがいれば大抵のことは済むのでいいの
だが、どうせ戻って来たら衆議院解散なんでしょう。内閣改造をして
「仕事人内閣」とか言ってませんでしたか?

「なんの仕事もしなかった内閣」ってことでいいですかね。

昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』(加藤恭子 文藝春秋
読了。

2003年夏の雑誌「文藝春秋」誌上で歴史的資料発見が報じられた。
先の大戦に対して、昭和天皇が国民に謝罪しようとしていた「おこと
ば」の草稿だった。

当然のように該当の「文藝春秋」を購入し、今でも我が家の書庫の
どこかに眠っているので、本書の内容はほぼ把握していたが改めて
読んでみた。

本書に先駆け、著者は島田道治の評伝を著している。作品執筆の
為に島田の遺族から借り受けた資料を返却する時になってこれま
でその存在に触れた発言はあったが実際に誰も目にしたことのな
かった昭和天皇の「謝罪詔勅」と思われる草稿が発見された。

実業家・銀行家であった島田道治が時の首相・芦田均に請われて
宮内府長官に就任したのが昭和23年。

今では昭和天皇ご自身が先の大戦に対して責任をお感じになられて
いたことは、多くの証言や資料によって広く知られるようになったが、
当時は国内外共に昭和天皇の戦争責任を追及する声も大きく、退位
問題も絡んでいた。

昭和天皇側近のなかでもけじめをつなければとの思いも強かったよう
だし、昭和天皇ご自身も「国民に詫びたい」との思いが強かったようだ。

そこで詔勅(今で言う「おことば」)の内容を練り始めたのが島田氏で
あった。

「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧(ハ)ヅ」。

深い反省を込めた昭和天皇のおことばは、2回、公表の機会があったが、
結局は吉田茂などの反対にあい、島田氏が保管した文書類の中に埋も
れてしまった。

研究者のなかにはこの「謝罪詔勅」は発表されない方がよかったと
する方もあるようだ。発見された文書自体は、最終稿ではなく島田氏
の試案ではとの意見もある。

公表されなかった最終稿はまだ、どこかにあるかもしれない。それでも、
この草稿は貴重な物なのではないかと思う。

そして、島田氏の試案とは姿を変えていようと「謝罪詔勅」が発表され
ていたら、昭和天皇がお感じになられていた戦争責任を私たちはもっと
早くに理解出来たのかもしれない。

GHQの思惑もあったのだろうが、日本自体が戦争責任をうやむやにして
来た歴史も、違ったものになっていたかも…なんて考えるのは行き過ぎ
かな。