伝え続け、受け止め続ける

ヒロシマはどう記録されたか 下 昭和二十年八月六日』(小河原正巳
 朝日文庫)読了。

上巻では原爆投下当日に、爆心地にいたジャーナリストたちが体験・
目撃した被爆直後の惨状が中心だった。下巻は広島への原爆投下
翌日以降の広島の様子、そしてメディア復旧への道、戦後の原爆
報道を振り返る。

原爆投下を私たち日本人がどのように捉え、どう伝えて行くか。年々、
語り部」たちは鬼籍に入って行く。当日の地獄絵図のような広島の
様子を伝えられる人たちは、近い将来、いなくなってしまうだろう。

それでも、人々が語った内容や当時を再現した映像は永遠に残る
はずだ。「何が起きたのか知っておきたい」と思う人がいる限り。
「あの日を伝えたい」と思う人がいる限り。

広島平和記念公園の慰霊塔のある場所には、原爆が投下されるまで
日常の暮らしがあった。その街の地図を再現しようとした住民がいた。

被曝した上に憎しみの投石を受け、亡くなったアメリカ兵捕虜がいた。
自国の兵士が被曝しているのに、アメリカ政府もやはり遺族に対して
事実を伝えていなかったんだね。メディアは遺族を探し、彼らの家族
がどのようにして亡くなったのかを伝えている。

原爆とかから25年後。あの日、新聞を発行できなかった中国新聞社が
当日の紙面を作っていたのはまったく知らなかった。

そして、広島が受けたのは原爆被害だけじゃなかったんだよね。原爆
投下の翌月に発生した枕崎台風でも甚大な被害を受け、疎開させて
いた輪転機で新聞発行を続けていた中国新聞社は再度、自力発行
中断を余儀なくされる。

それでも、地元メディは復活した。70年は草も生えないと言われた
広島の町が、徐々に復興へ向かったように。

伝える側も受ける側も、戦争も原爆も知らない世代が多くなっている。
それでも、伝え続け、受け止め続けることが必要なのだと思うわ。