言葉が淘汰された先には

戦争ばかりしている国で「戦争の惨禍を繰り返してはいけない」などと
演説をした我が国首相に同行した防衛大臣が、帰国翌日に靖国神社
へ参拝である。

靖国神社は不戦の誓いをするところではなく、何かあれば後に続き
ますと誓うところ」が持論の稲田防衛相は、一体、どこと戦争する気
なんだろうな。

辻本清美センセイッ!また国会で泣かせてやって下さい。

『昭和のことば』(鴨下信一 文春新書)読了。

市販のおせち料理に生ものや肉類が入るようになったのはいつ
からだろうな。三段の重箱にはそれぞれ意味があったと思うのだ
けれど、中身が変わってしまったらそんな意味も薄れちゃうよね。
広告で見る市販のおせち料理は豪華ではあるけれど、単なる
オードブルになってしまってないか?

「やばい」というのは「具合が悪い」とか「都合が悪い」という意味
だったと思うのだけど、こちらもいつからか使い方が変わったようだ。
美味しくても、可愛くても、格好良くても、感動しても、「やばいっ!」
だものね。

言葉は時代と共に変容する。そんな言葉の中でも著者が「昭和の
ことば」と感じたものを取り上げて、月刊誌「文藝春秋」に連載してい
たコラムをまとめたのが本書。

「電話をかける」も使わなくなったよね。「電話する」が大半じゃない
のかな。あ、今は電話じゃなくてLINEか。本書で初めて知ったのだけ
れど、電報も、テレビも、電話同様に「かける」と言ったとか。

私も昭和生まれで成人してからしばらくは昭和を生きていたのだが、、
昭和生まれでも昭和のどの時点で生まれたかで違うんだな。

使わなくなった言葉は崩れ去り、それに伴う所作も忘れられると著者
は言うのだけれど、昭和以前の時代を生きた人から見たら、やはり
昭和の時代にも言葉の乱れや崩れはあったと思うんだよね。だから、
一種のノスタルジーでもあるのではないかな。

ただ、言葉は使わないと滅びるには共感する部分があった。例えば
こうしてパソコンで文章を書くのが常態化していると、たまに手書きで
文章を書く時に漢字が思い出せなかったりする。

絵文字はもとより、LINEのスタンプは言葉の代わりに使用されるの
だが、それに慣れてしまうと感情を言葉で表現することが出来なくな
るのではないかな。

言葉もどんどん淘汰されるのかな。「やばい」のように、なんでもひとつ
の言葉で表現できるようになってしまったら、それはそれで寂しいが。