風が、匂いが、光が、温度が感じられない

歌舞伎の神様がいるとしたら、その神様はあまりにも無慈悲じゃ
ないか。

団十郎が、勘三郎が、三津五郎が、歌舞伎役者としてはまだまだ
これからって時に奪われた。今度は歌舞伎役者ではないけれど、
海老蔵の奥様が乳がんを患っていることが分かった。

がんに打ち勝って欲しいと、心から願う。

エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦』(梨木香歩 
 新潮文庫)読了。

実は女性作家が苦手である。おまけに小説に食指が動かなく
なってからかなりの年月が経つので、本書の著者の代表作と
も言える『西の魔女が死んだ』も『裏庭』も読んでいない。

それなのにいきなり紀行文に手を出してしまった。お隣のラトビア
のリガにはしょうもない理由で行ったことがあるのだが、エストニア
は行きたいと思いつつ、未だに訪れたことがない国だからだ。

申し訳ないのだが、私にはこの著者の文体がまったく合わなかった。
倒置法と括弧書きの多用でいらついた。

そして文章を繋ぐのに「でも」でもなく、「しかし」でもなく、「だが」でも
なく、「が」で繋ぐ書き方。これが私は大嫌いである。アナウンサーが
話し言葉で「で」を多用するのと同じくらいに嫌いである。

そもそもなんでエストニアなのかが分からないんだな。一応、仕事
で訪れているのだがこの紀行文を書くための仕事なのかな。編集者
が同行しているのでそうなのだろうけれど。

著者が動植物に詳しく、自然を愛している人だというのは分かるの
だ。だが、肝心の自然を表現する描写に弱さを感じる。

紀行文というのは読んでいるうちに自分が一緒に旅をしている錯覚
に陥る楽しみがあると思うんだ。本書にはそれが一切なかった。

文章の向こう側に拡がるエストニアの風景が立ち上がって来ない。
風の強さが感じられない。空の色が見えてこない。森や林の匂い
が漂って来ない。そうして、訪れた街の温度が伝わってこない。

出会った人に対しても、食べた料理に対しても、建築物に関しても
「素朴」という言葉がどれだけ繰り返されていることか。

残念だ。女性たちの民族衣装の肌触りくらいは書いて欲しかったの
だけれどね。

大国に翻弄されて来たエストニアの歴史や、著者自身の自然に対
する考えなども記されているのだが、どうも深みが足りない。

気軽に行けない国や地域であるからこそ、紀行文を読んで行った気
になって楽しむのが常なんだが、エストニアは自分で行かなきゃダメ
かしらね。

尚、私はエストニア出身の元大関把瑠都が好きだった。横綱になって
欲しかったのだけれど、優し過ぎたのかな。