狼は子羊の群れに放たれ続けた

シリアでヌスラ戦線と思われる組織に拘束されていたスペイン人の
ジャーナリスト3人が解放された。

背後にはトルコとカタールの介入があったようだ。さぁ、日本政府は
どうする?今回と同じヌスラ戦線に拘束されていると言われる安田
純平さんの件は進展なしのようだけれど。

やっぱり見殺しかしらね。

『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』(ボストン・
グローヴ紙≪スポットライト≫チーム:編 竹書房)読了。

アメリカの刑務所の囚人同士の間でも、収容された犯罪によって
ヒエラルキーがあるらしい。なかでも最も軽蔑される犯罪はレイプ
や子供への性的虐待だそうだ。

多くの犯罪者のなかでも最低だと思われている行為を犯したのが、
聖職者であったらどうだろう。衝撃は計り知れないではないか。

2001年1月にアメリカの「ボストングローヴ」が一面に掲載した記事
は、カトリック教徒が多く住まうボストンのみならず、アメリカ全土に
驚愕と憤怒の嵐を巻き起こした。

本書と同名の映画はこのスクープを追った記者たちの取材の過程を
描いて、アカデミー賞の作品賞・脚本賞を受賞した。本書は映画の
ノベライズではない。アメリカのカトリック教会で行われていた少年
への性的虐待の全体像を掘り出した調査報道の作品である。

汚い言葉で申し訳ないは、胸糞悪いのだ。反吐が出るのだ。例え
聖職者であろうと性欲はあるだろうし、性的嗜好もあるだろう。それ
はいいんだ。

だが、彼らが狙ったのは未成年の少年たちだ。被害者には4歳の
子供まで含まれる。聖職者という立場が被害者たちやその家族に
安心感を与えた面もあるだろう。教区の司祭であればプライベート
な空間である家庭内にも容易に入り込めたのだろう。

そんな環境を彼らは逆手に取った。被害者からの訴えがなかったの
ではない。「ボストングローブ」紙が報道する以前から、子供が司祭
に性的ないたずらをされたと教会に訴え出た家族はいた。同僚が
少年と不適切な接触を持っていた場面を目撃した司祭が上層部に
報告した事例もあった。

しかし、大きな問題にならなかった。教会は被害者に和解金を支払い、
このことは口外しないとの秘密保持契約書を提出させていた。要は
口止め料だ。そして、問題の司祭は教区を移動し、新たな被害者が
生まれる土壌を作った。

カトリック教会は権威である。その権威は信徒ではなく、司祭という
自分たちの身内を守ることに必死だ。司祭の不品行を知っていながら
枢機卿は他教区への推薦状を書き、司祭たちの毒牙にかかった少年
たちへの謝罪はしない。

神に仕える組織も、世俗の組織となんら変わらない。自分たちの保身
が第一なのだ。迷える子羊は一体、どちらなんだろう。

問題の根っこは深いのではないかと思う。カトリックの総本山である
バチカンがこの問題に対し、正式に謝罪をするのは現在の法王で
あるフランシスコの登場までなかったのだから。

少なくない司祭たちが少年たちに対して犯した罪は、カトリックの独身
主義にあるだけはないのだろう。独身だろうが、既婚者だろうが、一定
の割合で小児性愛者は存在するのだから。本書でも事件が起きた
背景については消化不良で終わっている。

それでいいのかもしれない。今後も教会と小児性愛を追う報道は
続くのだろうと思うから。人の心が犯す罪は、例えそれが聖職者
であったとしても根源を追及するのは難しいのだろうし。

本書でも映画でも「スポットライト」のタイトルになっているが、これは
分かり難いと思う。現代は「BETRAYAL」。日本語にすれば「裏切り」。
こっちの方がいいと思うんだよね。「スポットライト」って「ボストング
ローブ」紙の特集記事のコーナー名だもの。

本書の内容は「さすが調査報道」なのだけれど、翻訳があまり良くな
い。訳者の経歴を見ると洋画のノベライズしか訳したことがない人
のようだ。申し訳ないが、こういう訳者に本格的調査報道の翻訳は
無理があったと思う。

「訳者あとがき」の、ふざけたような軽さにもがっかり。違う発行元で、
違う訳者であればもっと読みやすかったかも。そこが残念。