忘れちゃいけないもう一つの危機

「断固、非難します」

北朝鮮が何かするたびに、我が国首相の安倍晋三は同じことを言う。
この人は本当に語彙が少ないんだな。何食べても「ジューシー」って
言うのと一緒だな。

安倍が棒読みする原稿には、漢字にはすべて振り仮名がふってあり、
水を飲むタイミングまで書き込まれているとか。もしかして、国連での
英語スピーチは全部カタカナだったのかもな。

福島第二原発の奇跡 震災の危機を乗り越えた者たち』(高嶋
哲夫  PHP)読了。

3月12日午後12時15分、3号機が冷温停止
3月14日午後5時、1号機が冷温停止
3月14日午後6時、2号機が冷温停止
3月15日午前7時15分、最後の4号機が冷温停止

2011年3月11日に発災した東日本大震災後、大震災と津波による
被害と、全電源交流電源を喪失した福島第一原子力発電所の事故
がメディアを埋め尽くした。

なかでも原子炉建屋が水素爆発を起こした福島第一原子力発電に
関しては日本のみならず世界中がその推移を見守っていた。

しかし、危機を迎えていたのは福島第一原子力発電所だけでは
なかった。茨城県東海村に立地する東海第二、そして福島第二も
危険な状態に陥っていた。

本書はこれまで福島第一原子力発電所事故関連のなかでしか語ら
れなかった福島第二の緊迫の4日間と、対応に係わった人々の「そ
の後」を追っている。

福島第一と福島第二の一番の大きな違いは、第一が外部電源の
全てを失ったことに対して、第二では富岡線2回線のうち1回線が
かろうじて生き残ていたことだ。のちに、首都圏の停電解消の為に、
東電本店はこの唯一の回線を「切ってもいいですか?」と当時の
第二原発所長・増田氏に聞いて「ふざけるな」と却下されている
のだが。

「扉1枚向こうは地獄」。高い放射線量の中で原子炉の暴走を止め
ようとした第一の現場も壮絶だったが、第二も危険と隣り合合わせ
だったことに変わりはないんだな。

なによりも電気を復旧させること。これには電気工学を学んだ電気屋
である増田氏が所長だったことが幸いしているのだろう。

重たいケーブルを人力だけを頼りに9kmに渡って敷き、原子炉を
冷やす為の水が足りなくなれば「あとで役場に報告すればいい」と
近くの川からポンプでくみ上げる。

危機に直面した時の判断力。第一の吉田所長にしろ、第二の増田
所長にしろ、それが出来る人だったのだな。だから、本店も政府も
横からあれこれ言わず、現場にすべて任せればよかったんじゃない
のだろうか。

本書の後半は増田氏の前任であった第二所長・石崎氏のことに紙数
が割かれている。これは著者が個人的に石崎氏を知っていることも
あるのだろうが、広報出身の異色の所長として石崎氏が築いた人脈
が、あの緊迫の4日間の第二全体の一致協力に繋がったのだろう。

東電の人たちばかりではなく、協力会社の人々の思いもカバーして
おり、これまでほとんど報道されなかった福島第二の状態が克明に
描かれている。

改めて思う。福島第二が、東海第二が、福島第一と同じ状況に陥って
いたならば日本は今、どうなっていたのかと。

私は東京電力という会社自体は信用していない。福島第一の事故
当時、頑なに「メルトダウン」との言葉を使おうとせず、ほとぼりが
冷めたのを見定めたように「実はあの時、メルトダウンしてました。
事故3日後にはその測定も可能でした」なんて後出しばっかりして
いるから。

でも、現場は必死だった。この思いはくみ取りたいし、忘れないで
いたいと思う。福島第一の廃炉作業も大事だけれど、本店と現場
の温度差の解消こそ、東京電力に必要なものではないのだろうか。