モラルの欠如、想像力の低下、感受性の鈍麻

大風呂敷を広げて誘致した割には、次々と計画の変更が出ている
2020年東京オリンピック。今度は新国立競技場は開閉式の屋根
なしで開催ですって。

そもそも招致活動の際に安倍晋三福島第一原子力発電所
汚染水は完全にコントロールされていると言ったのも嘘だしね。

こんなことなら国立競技場の解体なんてしないで、既存施設の
改修での開催案を出せばよかったのに。既に更地になっちゃった
ものね。

オリンピック期間中は関東から脱出したいな。

『内側から見たテレビ やらせ・捏造・情報操作の構造』(水島宏明
 朝日新書)読了。

著者は映像ドキュメンタリー制作に携わり、海外特派員、ディレクター、
解説キャスター等を務めた元テレビマンである。テレビ報道の現場を
知る著者が、何故、やらせや捏造などの不祥事が起きるのかを解き
明かしている。

似たようなメディア論は以前にも読んだ。その時も、今回も感じた。
業界にいたからこそ厳しい批判眼があるのは当然だが、結論と
しては現場擁護に収れんしてしまうのは何故か。

それはテレビと言う表現方法に対する愛着でもあるんだろうが、
「テレビの内側を知らずに批判するな」という言い分はどうなんだ
ろうか。

メディア関係を専攻している大学生ならいざ知らず、一般の視聴者
がどうやってテレビの内側を知れと?

極度に細分化された作業、求められる速報性と独自性、限られた
予算と人員。そのなかで起きる単純なチェック・ミスから、過剰演出
による捏造。

原因は複合的なものなのだろう。だが、作り手の側のモラルの欠如
や、想像力の低下、感受性の鈍麻はありはしないか。

例えば本書では紛争地での取材について書かれている。外務省から
退避勧告が出れば大手メディアの人間は現場を引き上げる。残るのは
フリーランスのジャーナリストたちだ。

著者はこの点を問題視してるのだが、では自身が大手メディアの内側
にいた時にそれを変えようと努力したのだろうか。

同じことは福島第一原子力発電所の事故についても言える。事故の
「後」しか報じないメディア。事故「前」に原発について報道するべき
だったのではないか…と。

ならば、著者はやろうとしたのか。多分、出来なかったろう。本書では
ほとんど触れられていないが「スポンサー・タブー」の存在を無視して
は語れないし、あえて大スポンサーであった電力会社を批判する
報道は出来なかったろう。

著者自身の体験を綴っている部分が読みようによっては自画自賛
も受け止められる。メディアが「報じないこと」と綴るのであれば、
自身がメディア側にいて「出来なかったこと」もつまびらかにして
欲しかった。

「テレビを見もせずに批判するな」と著者は言う。ならば問いたい。
「見るべき価値のある番組が一体どれほどあるのでしょうか」と。

ドキュメンタリー制作をしたことを誇りにしているような著者だが、
ドキュメンタリーでさえ「取材者側の視点」という加工が施されて
いるとは思わないのかな。

ニュースも報道も、どんどんバラエティ化されて行く。どのチャンネル
も、どの時間帯も同じような番組ばかりを垂れ流すテレビに未来が
あるとは思えない。

但し、一部ではあるが優れた報道番組があるのも確かだ。だから、
批判しながらも一定時間はテレビを見る。そんな視聴者もいること
を著者は失念していやしないか。