撮るか、助けるか。自分ならどうする

益々立場が悪くなっている朝日新聞である。従軍慰安婦問題に
続き、福島第一原発事故の国会事故調「吉田調書」報道でも
訂正だ。

どうするんだろね。私は「天声人語」が必要なので購読してる
けど、部数も減少なんて報道されていた。

サンゴ事件の教訓はどっかへ吹っ飛んじゃったのだろうかねぇ。

『フォト・ジャーナリズム いま写真に何ができるか』(徳山喜雄
平凡社新書)読了。

1993年。内戦と干ばつが続くスーダンで撮られた写真がある。
栄養失調でうずくまる少女。その背後には少女をじっと見つめる
ハゲワシ。

ケビン・カーターが写した「ハゲワシと少女」と題された写真は、
ニューヨークタイムズ」に掲載されると賞賛される一方、批判の
嵐も巻き起こした。

曰く、写真を撮る前にハゲワシを追い払って少女を助けるべき
ではなかったのか。

「撮るか、助けるか」。フォト・ジャーナリズムに付きまとう大きな
問題だ。海外だけの話ではない。日本でもあった。豊田商事
長野会長刺殺事件だ。

その時、長野会長の自宅マンションには逮捕を聞きつけた
多くのマスコミが駆けつけていた。そこへ現れた自称右翼の
ふたりの男は窓を破って部屋に侵入し、長野会長をめった刺し
にして殺した。

マスコミの人間は、誰もふたりを止めなかったばかりか、刺殺後に
部屋から出て来たふたりの撮影を続けていた。

「報道の為」という大義名分はどこまで通用するのだろうかと
考える。重大事件が起きると、加害者はもとより被害者までも
がそのプライバシーを丸裸にされる。

「今のお気持ちは?」。遺族にマイクやカメラを向け続ける必要
はどこにあるのか。

本書は2001年の発行なのでデジタル技術の発達し、誰も彼もが
デジタルカメラを手にするようになった現在とかなり状況は異なる
が、「写真」が持つ可能性やその功罪を著者自身の経験をも踏ま
えて解説している。

神戸の児童連続殺傷事件の、未成年(当時)容疑者の顔写真
が写真週刊誌に掲載されたこともあった。社会正義なのかも
しれないが、顔写真を晒すことに本当に意義があったのだろう
かと思う。

顔写真掲載はかなり特別な例だが、「撮るか、助けるか」は
報道の現場が抱えるジレンマなのだろう。ジレンマを抱えながら
も撮影する人たちがいるからこそ、私たちは世界で何が起こって
いるのか知ることが出来るのだから。

ふと、考える。自分が伝えるという使命を帯びてその場にいたら、
撮るのか、助けるのか。さぁ、どっちなのだろう。