文字を手に入れるということ

『生きなおす、ことば 書くことのちから─横浜寿町から』
(大沢敏郎 太郎次郎社エディタス)読了。

新聞や雑誌、本を読まない活字嫌いの人でも、毎日何かしらの
文字を読んでいる。

コンビニエンスストアやスーパーの商品棚の文字だったり、駅や
バス停の行先案内だったり、勤め先から送られてくる給与明細
だったり。

私たちの日常には文字が溢れている。だが、その文字が読めない
人たちがいる。日本の識字率は99.0%だと言われるが、教育を
受ける機会を奪われ、読み書きの出来ないまま大人になった
人たちがいる。

もし、文字が読めなかったら?もし、文字が書けなかったら?
私たちには当たり前すぎて意識したこともないが、もし、自分が
そうだったら?

役所や銀行、郵便局の窓口で。手続き上、必要な用紙に記入
出来ない。子供が学校から持ち帰って来るプリントが読めない
から、連絡事項が分からない。

本書では実際に文字が読めず、工場内で「故障・危険」と張り紙
をされた機械に触れて大怪我をし、その上、「会社に賠償を求め
ない」と書かれた内容が分からぬまま印鑑を押してしまった人の
話が出て来る。

先日読み終わった『ホームレス歌人のいた冬』のなかで、本書と
著者である大沢氏の横浜・寿町での識字学校の話が出ていた
ので興味を惹かれて読んだ。

高い識字率を誇る日本だが、各地を転々として寿町へ流れ着いた
日雇い労働者や在日1世のイオニたち、韓国や南米などから来た
出稼ぎ労働者たちのように、日本語の読み書きが出来ないことで
これまでの人生のうちのある部分を奪われた人たちがいるんだ。

「おれは、二日間しか学校へ行っていない。だから文字の読み書き
ができない。あ・い・う・え・お、から字を教えてほしい」

ある男性のこんな言葉から始まった識字学校に通う人たちは、
心から文字を学ぶことを望んでいた。文字が書ければ、読めれば、
これまで諦めていたことだって出来る様になる。

識字とはこうあるべきだなんていう押し付け論はなし。著者と一緒
に学んだ人たちのことを淡々と綴り、彼ら・彼女らが書いた文章を
手を入れずに掲載している(ただし、読み方のルビはある)。

それぞれの文章に、震えた。書くという手段を手に入れたことで、
この人たちは自身の生きて来た道程を見つめ直したのか。

間違っていい。話し言葉との区別なんかなくったっていい。うまい
表現なんかしなくていい。技巧をこらす文章になんてしなくていい。
直截に、魂に響く言葉を書くこと。

当たり前のように文字を書き、当たり前のように文字を読む。
それが当然として生きて来た私には、絶対に真似の出来ない
ことだ。