「安全神話」の提灯持って

変わってないかなぁと一縷の望みをかけて、こまめに天気予報を
チェックする。変わってない…やっぱり明日は明け方から雪か。

仕事の帰り道、自宅近くの駐車場では早くも車のタイヤにチェーンを
装着中の人もいた。

あれこれ考えても、こればっかりは降ってみなきゃ分からないものな。
はぁ…雪は好きだけれど、交通機関に大きな障害が出ませんように。

原発とメディア─新聞ジャーナリズム2度目の敗北─』(上丸洋一
 朝日新聞出版)読了。

「書きたいことを書いているのではない。書かなければならないことが
あるから書いているのだ」

そう言ったのは反骨のジャーナリスト・桐生悠々だ。「書かなければ
ならないこと」があるのに、「書かなかった」どころか潰しにかかった
のが日本の全国紙だ。

本書は福島第一原発事故後に、朝日新聞がそれまでに掲載した
原発関連記事の傾向を追いながら自社の方向性を検証している。

国内での研究も不十分のままに原子力発電の予算をつけて、政治主導
で始まった日本のエネルギー行政。本来であれば、「それで本当にいいの
か」との疑問を投げかけていいはずの新聞は競うように政府のお先棒を
担いだ。

輪をかけたのは中東戦争によるオイル・ショック。資源の乏しい日本で
電力を安定供給するには原子力発電しかない。近い将来、原子力
船を動かしたり、飛行機を飛ばしたり、車を走らせたりするかもしれない。

手塚治虫が描く未来像ならいいだろう。だが、新聞がフィクションの
夢を広げてどうする。見てごらん。原子力船「むつ」の顛末を。

唯一の被爆国である日本が、「原子力の平和利用」の名の下、
放射線被害の実態もなかったかのように新聞は安全神話
肯定した。

それどころか、原発に反対する人々を「非科学的」だの、「補償金
欲しさ」だの、中傷する始末だ。

反対住民の声も聞かず、電力会社や監督官庁が発表する情報
ばかりを垂れ流す新聞は、既にジャーナリズムではない。ただの
「官報」だ。

「国策を支持する」との判断に従い、反対派の声を拾い上げようと
しなかったのは、何も朝日新聞に限ったことではない。

ビキニを忘れ、スリーマイル島チェルノブイリを我がこととして
考えなかった新聞にも大罪がある。

尚、朝日新聞の名誉の為に言っておくが、東京・大阪の両本社や
支局にも安全神話に批判的な記者はいたのだ。

「都会生活者の二男三男よ、長男の国、辺境の寒村は、放射能
まみれになっても、きみたちが健康で、優雅な文明生活を味わえて、
せめて、二DKのマンションでくらせるように、人のいあやがる原発
を抱えてがんばっているのだ、という声を、私は若狭の地平から
いく思いがする。
いつまでも、美しくあれ、と私は故郷に合掌する。そうして、知足
の心根をつちかわれた仏教国が、かかえこんでいる文明の
火のために、どのように燃え、どのように亡びるかを見ずに
死ぬのかと思う。母のもとにゆくのかと思う。正しく諸行は
無常である」

作家・水上勉の文章が、今になっては胸に沁みる。

先の大戦大本営発表を垂れ流した新聞は、エネルギー政策でも
大本営発表を垂れ流し、国民の側にではなく国側に立ったのだ。