いつか後世に名を残して

地下鉄への感段を下りていると、親子連れが上がって来た。お母さんに
手を引かれた男の子が泣いている。3〜4歳くらいだろうか。

しゃくりあげながら言っているのは、お母さんに抱っこして欲しいということ。
それでもお母さんは手をつないだまま、男の子のペースに合わせて階段
を登る。

「お母さんはエレベーターで行こうって言ったよね?でも、階段がいいって
言ったのは○○ちゃんでしょう」

初志貫徹させようとしているのだ。でも。大丈夫かな?ぐずぐずしているよ、
お子さん。すれ違って、しばらくして後ろを振り返ると「あと少し、あと少し」
と男の子に声をかけながら、ふたりはめでたく階段を登り切った。

ほっとして改札を抜けたら電車を1本、乗り損ねた。汗。

『新聞記者の流儀 戦後24人の名物記者たち』(河谷史夫 朝日文庫
読了。

読み捨てされるのが日々発行される新聞の運命だ。時々、連載記事の
スクラップをすることはあるが、ほとんどは古紙回収の日に新聞販売店
が引き取りに来てくれ、何個かのトイレット・ペーパーに変身する。

新聞の宅配も年々購読者が減っている。仕事先では新聞購読をして
いない人の方が圧倒的に多い。近年はインターネットの影響もあり、
大新聞といえども発行部数が落ちている。

新聞が、新聞としての役割を持っていた時代があった。戦中は大本営
発表や軍国主義国家へのヨイショ記事を書くことが仕事だった。終戦
となり、そんな戦中の自分たちの記事を恥じ、むのたけじのように新聞社
を去った者もいれば、そのまま新聞社に残り、戦後の記事を書き続けた
記者もいた。

「書かない」と約束したことは絶対に紙面に記事にしなかった後藤基夫、
第五福竜丸の被曝をスクープし「死の灰」という言葉を生んだ辻本芳雄、
身辺雑記は新聞コラム向きではないとされていた常識を覆した「よみうり
寸評」の細川忠雄、そしてその文章を読むたびに打ちのめされた気分に
させられる朝日新聞きっての名文家・深代惇郎

それぞれに個性的な記者24人のミニ評伝は、古き良き時代の新聞を
懐かしむ著者の感傷も加わっているので、読みようによっては「昔は
よかった」の懐古趣味とも受け取れてしまう危うさもある。

文章がいささか読み難いのも難点。それでも、無頼が通用した時代の
記者たちの人生と仕事を知るにはいい。

今の時代に現役の記者たちの中で、後年、この24人のように名を残す
記者が何人現れるだろうか。楽しみだ。あ…その頃、私は生きているか?

「報道すべきかどうかを決める標準は、それが政府の利益になるか
どうか、ということではなく、それが民衆の利益になるかどうか、という
ことである」

本書冒頭に掲げられた何人かの新聞人の言葉のうちの、ニューヨーク・
タイムズ ジェームス・レストンの言葉だ。この冒頭の言葉集を読む
だけでも考えさせられるね