死者に一番近い場所

昨夜は事件の模様が良く分からなかったが、一夜明けて徐々に
その時の様子が分かって来た。

大阪・ミナミでの通り魔事件である。そして思ったのは「またかよ」
なのである。

「死刑になりたかった」だとぉぉぉ。大阪維新の会は好きではないが、
松井大阪府知事の「自分で死・ね」はしごくまっとうな意見である。
まぁ、政治家が口にすると問題もあるのだろうが。

刑務所から出所した受け皿がない日本の社会も問題だけれど、
だからって人様の命を奪うことはない。死にたかったのならば、
人様に迷惑をかけずに命を絶つ道だってあるのだ。

もうねぇ、こんな事件ばっかり。一挙に血圧が上がりそうだわ。
プンスカ。

『恐山 死者のいる場所』(南直哉 新潮新書)読了。

日本一の霊場、口寄せするイタコ、死者との邂逅。そんな場所としての
イメージしかない恐山。

その恐山の菩提寺の住職代理が綴った書ということで軽い気持ちで
手の取ったのだが、いやはや考えさせられる。

死というものは死者の側にあるのではなく、生者の側に存在するって
かなり哲学的なのだけれど、亡くなった人には死はもう訪れないんだ
ものなぁ。

恐山に足を運び、死者を悼む人たちとの会話は「弔う」とはどういう
ことなのかを示唆してくれるし、死者とどう向き合うかのヒントをくれる。

テレビの心霊番組などの影響もあるのだろうが、おどろおどろしい
イメージがあった恐山も本書を読むと死者を追悼し、思いを馳せる
場所であることが分かる。

幽霊もUFOも見たことがないが、これまで1回だけ不思議なことがあった。
亡父の葬儀が済んだ夜のことである。

お骨となって家に帰って来た父の前で、父の仕事仲間たちは早過ぎた
死を惜しんで遅くまで遺骨の前で酒を酌み交わしていた。

父の遺骨を安置した部屋から少し離れた部屋で床に就こうとして
いたのだが、何故か左肩だけが重苦しくて眠ることが出来なかった。

日付が変わる頃、父の友人たちが帰って行った後に遺骨を安置した
部屋に移ると、方の重さがすーっとなくなった。あれは父が「傍に
いろ」と言っていたのだろうか。

尚、著者である僧侶はせっかく恐山に来たのだから幽霊を見たいと
夜間に宿坊の周りを歩き回って、宿泊者に幽霊だと思われるなんて
ことをしている。僧侶としては少々アウトサイダーなお人だ。