終わりが始まり
上告棄却で死刑確定。これにて、長きに渡ったオウム真理教の裁判が
終結した。
東京メトロ日比谷線の築地駅周辺の道路が、まるで野戦病院のように
見えた事件当日のニュース映像は忘れられない。
裁判は終わったが、親族を失った人・後遺症に苦しむ人たちに終わりは
ないのではないか。
判決は確定したけれど、結局は何も分からずじまいだったのではないだ
ろうか。元教祖は法廷で事件の核心については何も語らなかった。
何故、エリートと呼ばれた若者たちが不特定多数の人たちを殺傷する
ような事件に手を染めるようになったのか。
「2度とこんなことを繰り返さない為に」。重大犯罪が起きるとよく言われる
ことだが、一連のオウム事件の真相って解明されてはいないのではないか?
逮捕以前に刺殺された幹部が法廷に立っていたら、少しは真相が分かった
のだろうか?なんて考えてみた。
オウム真理教はふたつに分裂し名前こそ変えたが、現在でも宗教団体と
して活動している。そして、事件を知らぬ若い世代が入信しているという。
裁判の終了を受けて、刑が執行しされるようなら元教祖は「殉教者」に
祀り上げられるのではないか。そんな危惧が脳裏をよぎった。
『「独裁者」との交渉術』(明石康/インタビュー・解説:木村元彦 集英社
新書)を読み始める。
カンボジアPKO、ボスニア紛争の調停。1990年代に国連主導で行われた
平和活動の最前線で活動した明石康へのインタビュー集である。
国連内の大国主導のジレンマ。現場にいた人の発言は生々しいねぇ。