ドンキ・ホーテ

スーパーの駐車場の車の中から、2歳の女の子の姿が忽然と消えた。
車内に荒らされた形跡はなし。しかし、歩行するのに困難があったという。

一体、どこへ行ってしまったのか。随分と前、父親がほんの十数秒目を
離した間にいなくなった男の子がいた。祖父が農道で知り合いと立ち話を
している間に、消えてしまった女の子がいた。

現代の神隠しか。早く見つかりますように。

ローマ人の物語39 キリストの勝利[中]』(塩野七生 新潮文庫)読了。

軍事も政治も知らず、学究の徒として生活して来たユリアヌスだが、
副帝として任されたガリア再興で目覚ましい成果を挙げる。このことに
よって、ガリア防衛の兵士たちからの信頼を獲得する。

荒れ放題だったガリアの再興に尽力しているユリアヌスの元に届いたのは、
コンスタンティウス帝からの「お前のところの精鋭、送ってくれない?」という
要求だった。あぁ…ただでさえ少ない軍団兵を取り上げようというのか。

これに異を唱えたのはユリアヌス本人ではなく兵士たちだった。「家族と離れて
東方へなんか行きたくな〜い」と、ユリアヌスの天幕を囲んで抗議である。
説得を試みるユリアヌスだが、兵士たちは指揮官を「アウグストゥス!(皇帝)」
と言って、自分たちの盾の上に担ぎ上げてしまった。

さぁ、大変。このままでは帝位簒奪者とされてしまう。だが、コンスタンティウス帝が
タイミング良く病没したことで、ユリアヌスは帝位に就くことになった。

そうして始まったのが、改革である。コンスタンティヌス、コンスタンティウス親子
が「ミラノ勅令」を無視して大幅なキリスト教支援をしたことによって、優遇されて
いたキリスト教関係者の特権をはく奪し、「すべての宗教の信仰の自由」という
「ミラノ勅令」の本来の姿を取り戻そうとする。

宗教改革と共に、ユリアヌスが手を付けたのか官僚の大幅なリストラだ。
コンスタンティノポリスの皇宮には、何を仕事としているのか不明な大勢の
官僚がいたのを、思いっきり「事業仕分け」した。

しかし、ユリアヌスの治世は長く続かない。ペルシア戦役の最中に、馬上で
戦場を疾駆している時に腹部に刺さった槍が致命傷となってこの世を去る。
わずか19カ月の皇帝だった。

著者も言っている。ユリアヌスの治世が19カ月ではなく19年であったなら。
そうしたら、ローマ帝国のキリスト国教化はなかったかも知れぬ。ローマの
神々が「異教」として、排除されることはなかったかも知れぬ。

キリスト教史観では「背教者」とされるユリアヌスだが、帝国に本来のローマの
姿を取り戻そうとした彼は「最後のローマ人」だった。だが、狂い始めた歯車を
止めることは出来なかった。最後のローマ人は、ドンキ・ホーテでもあったのか。