居直られても困る

昨年読んだ『日本会議の研究』(菅野完 扶桑社新書)に対して、
作品内に登場する男性の仮処分の申請を受けて、東京地裁
出版差し止めを決定した。

ただ〜し、男性が申し立てた内容は複数個所だったが、実際に
東京地裁が認めたのは1か所のみだったとか。これで出版差し
止めっておかしくないか?

尚、版元の扶桑社は該当箇所を黒塗りにした修正版を発行する
模様。やるな、扶桑社。

既に所持しているが、修正版も購入しようかしら。

『誰も戦争を教えられない』(古市憲寿 講談社+α文庫)読了。

Twitter上での呟きやテレビ、ネット動画での発言が炎上すること
枚挙にいとまがない。いろんな意味で注目の若手社会学者である
古市憲寿。「若者代表」みたいな存在なので、ひとつくらい読んで
おかないとと思って購入したのが本書。

でも、失敗。というか、これは賛否真っ二つに分かれる作品では
ないかな。

世界各国の戦争博物館を訪れて、文字通りほぼ全世界を巻き込んだ
第二次世界大戦をどう伝えるかを考察しているらしい。

以前に読んだ『戦争の世紀を超えて その場所で語られるべき戦争の
記憶がある』は、姜尚中森達也アウシュビッツや38度線を実際に
訪問して戦争について語ったかなり哲学的な作品だった。

この作品の類書になるのかなと思ったのだが、軽いのだ。あまりにも
軽い。とにかく文章が私には合わない。

多分、戦争に関しての論考については欄外に注釈で記されている
参考文献からの引き写しなのだろう。この欄外の夥しい注釈で書かれ
て突っ込みもまったく面白くない。まぁ、それは読み手の感性の違い
だから、私には合わなかっただけかも。

あ、本文中に出て来る不要な突っ込みもあったな。

戦争の記憶と一くくりにしても、前線の兵士、戦争指導者、銃後の市民
で記憶は違うといのもどこかかから借りて来たお話だろうし、人の記憶は
年月を経るごとに汚染されるのも当たり前の話。美化される記憶もあれ
ば、曖昧になる記憶もある。

だから、どれほど戦争博物館を設け、後世の人々に戦争を伝えようと
しても「誰も戦争を教えられない」。この点には共感する。

しかし、戦争を知りたいと思うのは個人個人の感性の問題だと思うの
だよね。いくら「戦争は悲惨だ。繰り返してはいけない」と言われたとこ
ろで、言われた側が知ろうと思わなければどうしようもないのではない
かな。

知る機会はいくらでもあると思うんだよね。知ろうとしなかったことに
対する居直りの上で、古市氏は「戦争を伝える」ことを論考している
印象を受けた。

戦争博物館にはエンターテイメント性が必要だと説く当たりは古市節
なのかもしれないが、数字で表される戦死者の向こう側にはそれぞれ
の人生があることや、死者を悼む気持ちが欠如してはいないか。

本当の戦争を知ろうと思ったら、戦場へ行くしかないのだけれどね。
それが出来ないから、本や映像で知ろうとする若い世代もいると
思う。

「若者代表」古市氏の感性が、すべての若い世代に共通するものだと
捉えてはいけないと思う。これはこの人独特の感性とスタンスである
のだろう。

一言で片づけてしまえば、「浅い」ってことになってしまうのだだが。