静かなる狂乱の日々

文春砲がぶっ放されるらしい。明日発売予定の「週刊文春」で
ターゲットになったのは東京都知事選に立候補している鳥越
俊太郎氏だ。

昨晩から噂が広まっていた。女性スキャンダルらしい…と。
どうやら「週刊文春」だけではなく、週刊誌数誌が鳥越氏叩きの
ネタを持っている模様。

さぁ、どうなる?

『昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたのか』(日本テレビ
報道局 天皇取材班 新潮文庫)読了。

今でも鮮明に覚えている。昭和63年8月15日の終戦記念日の全国
戦没者追悼式だ。前年の9月、歴代天皇として初めて開腹手術を
受けられた昭和天皇は、ご静養先の那須御用邸からヘリで東京へ
お戻りになり式典に参列された。

既に公務の多くが皇太子殿下(今上天皇)が名代を務められていた。
しかし、昭和天皇にとってこの式典は特別な思いがおありだったの
だろう。ひと回り小さくなられたようなお体、弱々しい足取り。そして、
正午の時報には若干遅れて祭壇の前に立たれた。

天皇ということを考えなければ、そこにいるのは病身のひとりの高齢者
でしかない。だが、お言葉を読み上げる声は、張りのある、あの昭和
天皇のお声であった。

中継のテレビ画面を見ながら鬼気迫るものを感じた。これが「天皇」と
しての責務なのかとも思った。

私事ながら、この頃私は広告業界の片隅で仕事をしていた。昭和62年
9月の開腹手術からほどなくして、昭和天皇の病名の噂がちらほらと
耳に入るようになった。癌である…と。

宮内庁関係者や政府関係者、メディアの間では早い時期から暗黙の
了解だった。がん告知の問題もあり、多くのメディアは病名については
沈黙を守った。昭和63年9月24日、昭和天皇の重体が伝えられた時、
ただ一紙、「朝日新聞」のみが夕刊で癌報道を行ったが。

昭和天皇のお体に異変が起きた時から崩御までの日々は、ある種の
狂乱の日々だったのではないかと思う。それをリードしたのは、やはり
メディアだったのだろう。

本書は日本テレビの取材班が終幕に向かう昭和をどのように伝えた
のかの記録である。

天皇は公人中の公人である。その人の病状は「国民の知る権利」と
してメディアが「伝える責任」の範囲に含んでもいいのかとの問題は
あると思う。病の床にあるとはいえ、報道される本人が目にしないと
も限らないのだから。

1日に数回発表されるバイタルデータ。少しでも容体に変化があれば
通常の放送が特別番組に切り替えられる。今にも昭和が終わるので
はないかとの雰囲気を、テレビを始めとしたメディアが国中に広めて
いやしなかったか。

日本テレビのみならず、取材に動員されたメディアの人々は確かに
懸命に何かを伝えようとしたのだろう。しかし、その過剰な報道が
自粛を煽り、生活に枷を嵌めたことも否めない。

侍医長をはじめとした侍医団、宮内庁関係者への夜討ち朝駆け
少しでも情報を得ようとする取材者の行動は分からないでもない。

だが、それは突き詰めて考えれば他者との競争以外のなにものでも
ないのではないか。結局は「抜いた。抜かれた」の問題が大きいの
だろう。

「伝える責任」は独りよがりになっていはしなかっただろうかと思うの
だが、メディア側の反省点は書かれていないんだよね。過剰報道で
あったことを認めつつも天皇制を考える機会になったと自画自賛
してるのはちょっとなぁ。仕方ないか、日本テレビだから。

「いくら一生懸命取材してくれたって、患者である陛下にとって何も
いいことはないんだよ」

高木侍医長が記者に語った言葉が印象的だ。昭和天皇が少しでも
安らかに天寿を全うできるよう努めて来た侍医長の言葉だけに重み
がある。

取材する側が、取材される側の立場を考えて行動するって言うのは
無理な注文なのだろうか。妥協点はどこかにあると思うんだけれど、
スクープ合戦しか頭にないメディアには期待できないのかな。

メディア側からの昭和の記録として読むにはいいかも。