突き詰めれば「殺してもいい」になる

今日の白鵬の相撲はなんだかおかしかったな。稀勢の里戦だから
面白くなるだろうと思ったのに。がっかりだよ。

さて、明日は千秋楽なんだが琴奨菊の優勝で終わるかな。

『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』(児玉
真美 生活書院)読了。

この事件は日本ではあまり報道されなかったようだ。私もまったく知らな
かった。2004年にアメリカのシアトルこども病院である手術が行われた。

重い障害を背負って生まれた女の子アシュリーに施されたのは子宮と
乳房芽の摘出、そしてエストロゲンの大量投与による成長抑制。

子宮摘出は成長したアシュリーが生理の不快さと生理痛を感じなくて
いいように。乳房芽の摘出は車いすのストラップ着用に際に邪魔になる
のと、介護者がアシュリーを女性として意識しなくていいように。

そして、エストロゲンによる成長抑制は彼女の介護をする両親とふたりの
祖母の負担にならぬように。

ぞっとした。のちに「アシュリー療法」と呼ばれるこの処置が、彼女の両親
から出された強い要望だったことにだ。ソフトウェア企業の重役である
父親は、医師たちの前でパワーポイントを使い、この処置がアシュリーの
生活をいかに快適にされるかをプレゼンまでしている。

著者もこの点を指摘しているのだが、医学の素人である父親の主張に
何故、医師たちは他の方法を模索することなくその提案を受け入れて
しまったのか。

実際、アシュリーは生活のすべてに介護が必要になる。だからと言って
本人が望んだこと(まず、意思の確認が出来ないだろうが)でもない処置
が認めらるのだろうか。

「介護する家族の身にもなってみろ」なんて感情論で語ってはいけない
問題なのだと思う。障害を背負っている人には介護者の負担軽減の
為であれば何をしてもいいか?そうじゃないだろう。

アシュリーの両親と担当した医師の間には処置に対する認識の違いは
あるのだが、担当医が発する言葉のはしばしに「どうせ障害者なんだか
ら」との発想が見え隠れしているのが怖い。

突き詰めて行ったなら「重い障害を持っている者は殺してもいい」になら
ないか?実際、「この子は生まれた時に死んでいた方が幸せだった」と
言ってしまう母親もいるんだが。

「尊厳」ってなんだろう。生きとし生けるもの、すべてに尊厳はあると思う。
だが、このアシュリーのようなケースが世界的に認められてしまうなら
一定の条件下で医療は暴走しやしないか。

本書執筆時点でアメリカ国内ではアシュリーと同様の処置をされた障害者
が12人もいるというのも衝撃だった。

事件の経過と賛否両論、医師たちの論文の瑕疵をつき、いくつかの医療
事件を例に取って解説された良書なのだが、著者がアシュリーと同じような
症状を持ったお子さんの母親である為か時々、感情がむき出しになって
いるのが気になった。