何故、絶望から這い上がれたのか

派遣先は年中無休だが、私は本日が仕事始めである。なのに…暇。
普段の日曜日よりも暇。

常連のお客様は何人か声を聞けた。それでも暇。1日の受電件数が、
繁忙期の2時間分だ。

毎年1月・2月は暇だからしょうがないか。明日から何をしよう。手元の
資料は読みつくしたものなぁ。

『隔離の記憶 ハンセン病といのちと希望と』(高木智子 彩流社
読了。

ナチス・ドイツユダヤ人だけではなく、同じアーリア人でも身体に
障害を抱える人や、精神を病む人々を断種しようとした。日本でも
これと同じような医療行政があったのだ。」

瓜谷修治『ヒイラギの檻』の感想に、私はこう書いた。遠くない過去、
日本にあったのはハンセン病療養所という名の絶滅収容所だ。

隔離された人々の壮絶な人生は他の作品に譲る。本書は差別や
偏見に晒されながらも、自身の生を精一杯生きた人たちの記録だ。

ハンセン病は怖い病気ではないと啓蒙活動を続ける人や、詩人として
有名な故・塔和子さんのことは知っていた。

しかし、社会と隔絶され、過酷な環境に身を置きながらも、少なくない
人々が生きる光を見つけていた。

指を失っても手に絵筆を括り付けて絵を描く人がいる。学業に打ち込み、
大学受験を目指した人がいる。自分と同じ病で苦しんでいる人たちが
充分な治療を受けていないことを知り、中国奥地の隔離の村に薬や
包帯を届けた人がいる。

「あんた。キムチョンミっていう名前なら日本人じゃないよね。朝鮮人
子だろう。おれたちは社会に差別されているけれど、この園の中にいた
ら安全。あんたはこれから社会に出たら冷たい風にあたって大変だ。
つらいことがあったら、いつでも遊びにおいで」

偶然、隔離施設を訪れた在日朝鮮人の女子学生にこんな言葉をかけた
人は半世紀以上の時間を隔離施設で過ごし、重い後遺障害を背負った
詩人だった。

なかでも要撃だったのは黒川温泉宿泊拒否事件のその後の「その後」
だ。熊本県・黒川温泉のとある旅館が直前になってハンセン病患者たち
の宿泊を拒否し、該当旅館はその後廃業したことは知っていた。

旅館の廃業に伴い解雇された従業員たちは雇用継続を求めて会社側を
訴えた。この元従業員たちの支援に立ち上がったのが宿泊を断られた
患者たちだったのだ。

強い。ただ強いだけではない。彼ら。彼女らの心は、しなやかに強い。
この強さは一体どこから来るのだろうか。絶望の中にあって、死を
思ったこともあるだろう。実際、病を得たことに生きる気力をなくし、
自死してしまった患者も多くいると言う。

それでも「生きる」ことに希望を見出した人たち。著者も「あとがき」で
触れているが、ハンセン病を語る時に絶望や悲しみ、苦しみが付き物
になっている。でも、著者は言う。「喜怒哀楽」が揃って、人間の営み
なのだと。

ハンマーで頭をガツンと叩かれた気分だった。そうのなのだ。同じ人間なの
だも。「怒」や「哀」は強いかもしれないけれど、人には「喜」もあり、「楽」も
あるのだもの。

だが、忘れてはならない。ある病気の人たちを私たちは存在してはいけない
者として扱って来た歴史がある。戦争体験の風化は折に触れて言われる。
ハンセン病の体験者の話も同じだ。みな、高齢化している。

私たちがしてきた差別と偏見の歴史を風化させない為に、覚えておきたい
ことだね。そうして、毎年1月の最終日曜日は「世界ハンセン病の日」だ。