コマンダンテは広島で何を思ったのだろう

ゲバラのHIROSHIMA』(佐藤美由紀 双葉社)読了。

「今日はヒロシマから送ります。原爆の街です。このドームの中には
78000人の死者の名前が刻まれています。合計18万人と想定されてい
ます。平和のために断固として闘うには、ここを訪ねるのがよいと思い
ます。
では。 チェ」

1959年7月25日。キューバ革命の成功直後、革命の功労者でもある
チェ・ゲバラキューバ親善使節団の団長として日本に立ち寄り、
本人の強い希望で原爆の記憶を留める広島を訪問した。

理不尽な殺戮の地で、革命の英湯は何を感じ、何をキューバで伝えた
のか。

残念ながら資料は豊富ではない。それでも、冒頭に記した妻へのはがき
や、当時在日キューバ大使だった方の息子の証言などから、ゲバラが広島
へ赴くまでの日本政府の対応、広島平和記念資料館を訪れ、被曝者と面会
した様子を掘り起している。

キューバ革命に紙数が割かれているので、既にゲバラキューバ革命
その後のミサイル危機を既に知っている人には中だるみするかもしれ
ない。

だが、目新しい話もある。キューバの学校で使用されている教科書には
ヒロシマナガサキ」の記述があるそうだ。そして、キューバを訪れ
た著者が無作為に道行く人に尋ねると、ほとんどのキューバ人が日本へ
の原爆投下を知っている。

それは革命キューバにとって、広島と長崎への原爆投下は憎きアメリ
帝国の象徴だったからかもしれない。それでも、日本から遠く離れた
キューバの人々が原爆の悲劇を知っていることに驚く。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」

平和記念公園の碑文に刻まれた文字。ゲバラは案内した広島市職員に問う
たと言う。「なぜ、主語がないのか?」と。

どのような回答だったのか、記録はないし、ゲバラがどのような思いを
抱いたのかも不明だ。ただ、革命家であり医師でもあるゲバラは、原爆
投下とその犠牲になった人々に思いを馳せてくれたのではないだろうか。

実際、原爆病院を訪問し、入院患者を抱きしめているのだから。

イデオロギーを超越した、怒りや悲しみはきっとある。ゲバラが残した
数少ない広島訪問の記録に目を通して強く感じた。