不名誉の終着点ではなく、再生の出発点

「便宜供与」の意味は「岩盤規制にドリルで穴をあける」ことだと
閣議決定でもするのかな。

閣議決定って天皇陛下が裁可されるのではなかったっけ?
昭恵夫人は私人とかのくっだらない閣議決定に目を通される
今上陛下はどう思われているんだろうなぁ。

重光葵 上海事変から国連加盟まで』(渡邊行男 中公新書
読了。

重光葵は戦後の政治家としてよりも戦前・戦中の外交官としての
方が存在感があるんだよな。

本書は重光葵の回想録や手記からの引用が多用されているので、
人物を描くと言うよりも重光の目を通した外交史の一面というとこ
ろかな。

1932年の上海事変後には駐華公使として中国との停戦協定締結
の為に奔走する。締結間際の天長節の式典での爆弾攻撃で右脚
を失うことになるのだが、手術直前に停戦協定に署名する。

駐ソ公使としてモスクワに赴任した時には日独防共協定直後という
これ以上ないほどの悪いタイミングだし、吉田茂の後任として駐イギ
リス大使として赴けば日独伊三国同盟締結。

ヨーロッパ情勢を分析して「日本はヨーロッパの戦争に介入しては
いかん」と再三日本へ書き送っていた重光にしたら、「何してくれて
つんだ、松岡外相」って心境だったのだろうな。

それでもイギリス・チャーチル首相との関係は良好だったようだから、
これはひとえに重光の人柄があったのだろうと思う。

重光行くところ難題ありって感じの外交官生活なのだが、どこに赴任
していようと国際感覚とバランス感覚を失わず、軍部主導に傾いて
いくことを軌道修正しようとしていたのが分かる。

それが東條内閣・小磯内閣で外相になった際の、スウェーデンを通し
ての和平交渉の模索だったのではなかろうか。

歴史に「もし」は禁句だけれど、この時の和平交渉が後任の東郷外相
に継続されていたらなら終戦はもう少し早かったのかもしれない。東郷
外相はソ連ルートを模索していたが、結局ソ連に拒否されるのだから。

そして、重光葵と言えばミズーリ号上での降伏文書調印だが、これも
各人が責任の押し付け合い。軍部は「軍人にとっては自殺に等しい」
と言い、政治家は「政治生命の終焉」ととらえた。

重光自身は近衛文丸が適任と思っていたようだが、その近衛も「陛下
に聞いて来るね」と言って責任逃れ。結局は昭和天皇のご意向で重光
と梅津大将に大命が下るのだが。

戦中も何度か昭和天皇へ海外状況などを報告している重光だから
こそ、昭和天皇の信任も厚かったのかもしれない。

「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」

降伏を不名誉ととらえた多くの軍人・政治家と、重光の捉え方が大きく
違ったのも興味深い。

外交官の視点での太平洋戦争なので、重光葵の生い立ちにはまったく
触れられていないのが少々残念。「欠点がないのが欠点」と言われた
人となりが知りたくなった。